神の主権と栄光を追い求めて

神学と信仰生活の覚書

【考察】弁証論がなぜ必要か?

f:id:hitsuziblog:20200530220135j:plain アウトライン

「弁証論」の定義

聖公会の偉大な神学者、J・I・パッカー師は弁証論の定義を簡潔に以下のように記しています。

「 信仰を真理かつ知恵として弁護すること(弁証論)」*1

キリスト教に対する無神論者からの批判

信仰を弁護することの前提条件は、信仰には”攻撃”があるということです。 最近の日本や世界の情勢を見ていると、キリスト教に対する批判圧力が、増しているように感じます。 人間中心主義(合理主義)の現代において、(保守的な)聖書の価値観は、人の常識の真逆の内容が真理であると告白することが多いからです。 もしも、キリスト者が信仰を弁護するという思考法や行動がないと、どうなるでしょうか?

まず、神の賜物として与えられた信仰に疑いが生じます。 セキュラ(世俗)の主張の声があまりにも、大きく強いとき、聖書のみことばが、間違っているように感じ疑いが生じます。 そして、信仰があるはずの自分に自信を失い、コミュニティから疎外されているように感じ、もはやクリスチャンであることの価値を見失います。 次に、信仰は神の命令に対する応答が伴うものです。 この信仰の応答こそ、教会の原動力なのですが、信仰の価値を見失うと、教会を建て上げる気力と体力が奪われます。

そしてもはや、神の裁きと怒りから救われた喜びよりも、世に同調することが、合理的で、なんの葛藤もなく、楽な生き方に見えて、教会から離れ、キリストの体である教会も同時に弱っていくのです。

弁証論は日本の中で信仰を維持する力

この事を防ぐために、信仰を真理と知恵に変換し、世に対して全ての事象において、聖書が正しい概念を示している事を証明しなければならないのです。

批判に対する聖書に基づいた反論

では、「信仰」を世に正しい事として証明するための証拠(エビデンス)は、どこにあるのでしょうか? R.C.スプロール先生のWhat Is Faith ?に以下の聖句の説明に納得がいきましたが、長くなってしまったので、今回はここまでにしたいと思います。 次回は「信仰」を真理と知恵に変換するためには、「信仰」が何かを理解していないければなりません。 次回のテーマは「信仰」について整理してまとめたいと思います。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。[へブル人への手紙 11:3] *2

*1:聖書教理がわかる94章 キリスト教神学入門 J・I・パッカー[著]篠原明[訳] 12頁

*2:聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会