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神学と信仰生活の覚書

【オススメ】聖書を読むの時に意識すべき3つのこと

 【なぜ聖書を正しく読むことが重要なのか?】

ポストモダンの現代、現実や価値は相対的なものであり、人生の意味付けも相対的なものである。その結果、聖書の読者(解釈者)が聖書の言葉の意味を再構築することが、当たり前になっている。

しかし聖書を読者(解釈者)が神の意図を外れて、聖書の言葉の意味を再構築し続けるなら、もはやそれは聖書の神を礼拝することも、信仰を与えられたことを感謝することも、神に栄光を帰すことも、不可能になる。なぜなら、それは”聖書の神”をほめたたえるのではなく、”自分という神”をほめたたえているからである。

聖書を読む時、間違った前提や目的で読んでしまうと、キリストに似たものとなる(以下、聖化)過程で、聖書の神から力を得ることも、クリスチャン同士で聖書を通して励ましあうこと、意義ある交わりも、教会メンバーとしての教会形成も、難しくなってしまう。

このような罠に陥らないために、私たちは何を意識して、聖書を読めばいいのか。

 

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 【聖書を読むの時に意識すべき3つのこと】

  1. 主観的に聖書を読むことを避けること。
  2. 聖書に書かれていることを客観的に読むこと
  3. 聖書を客観的に読みながら、神の超越性を探すこと。

1.主観的に聖書を読むことを避けること。

「私はこう感じたい」「わたしはこう願いたい」「わたしはこう思いたい」というような主観的な思いを持って聖書を読むと、聖書を正しく解釈できない。

なぜなら、自分の主観を前提を置いて聖書を読むなら、それはもはや聖書を読んでるのではなく、自分の願いや思いが”聖書の言葉だ”と思い込んでいるだけだからである。 

 このような状況だと、聖化の成長の見込みが低下する。

 

 2.聖書に書かれていることを客観的に読むこと

聖書には文脈がある。時代背景や文化背景、ヘブル的思想などを前提におきながら、聖書を解釈しないと、聖書の神を知ることができない。聖書を正しく解釈するためには、客観的に聖書本文を理解しないと、現代に生きる私たちに内容を適用し、実践することができない。

聖書を正しく解釈し、実践する神の民の共同体が”地域教会”である。

この共同体が、神に喜んで教会に仕えるなら、そこには必ず、神学と教理があるはずである。

なぜなら、神の民と”そうでない人”には、それを区別する”境界線”がある。

聖書に基づいた客観性によって構築される神学と教理によって引かれる境界線によって世と区別される、キリストの共同体が”地域教会”である。

つまり、教会を構成するクリスチャンが聖書を正しく解釈することは、クリスチャンが聖化するだけでなく、教会形成に直結する事実であり、現実なのである。

 

3.聖書を客観的に読みながら、神の超越性を探すこと。

聖書は私たちの客観性を超越する、聖書本文にであうことがよくある。

それは、神が私たちとは完全に違う神固有の性質、神が変わることなく、元々備わっていて、手に入れたり、失ったりしない性質(神の属性)を、お持ちの方である。

その方は、私たちが思いつかないようなことを、示される。

この事実を知る時、私たちは神ご自身を知り、喜び、賛美し、さらに神を知りたいと願う神の民になっていくのである。

 

参考文献

聖書を正しく読むために[総論] ゴードン・D・フィー/ダグラス・スチュワート

キリスト教神学 第2巻 ミラード・J・エリクソン 

聖書の解釈の逸脱と回復 中川健一