神の主権と栄光を追い求めて

神学と信仰生活の覚書

信仰を真理に変えるには?

最近、個人的に学んでいる、組織神学の1つである弁証論(弁証学)。 聖徒の堅忍と福音宣教に重要だと思われる、神学の一つです。 今書籍を集めたり、クリスチャン弁証家のコミニュティを見つけたり、徐々に理解が深まっているところです。

J・I・パッカーの弁証論の定義

「 信仰を真理かつ知恵として弁護すること(弁証論)」 (聖書教理がわかる94章 キリスト教神学入門 J・I・パッカー[著]篠原明[訳] 12頁)

は全体の一部であることが最近わかりました。

この内容の学びを辞めようかとも思いましたが、 せっかくなので、最後までこのJ・I・パッカーの定義を深めていきたいと思いました。 今回は、「真理」に焦点を当てて考えていきます。

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1 一般的な辞書の「真理」の定義

「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。」(大辞泉を参照)

どんな人でも、「真理」を知っていたら、人生の歩みで不安になったり、迷ったり、恐れたりする必要はないでしょう。 何故なら、その目的地に向かう道が誰が進んでも、同じ正しい目的地に、到着することが約束されているなら、同じことを真似るだけだからです。 再現性100%で、どんな人にも実現できるもの。 それが絶対的真理です。そんなものは、現代にはないと言われる方々がほとんどでしょう。 しかし、キリスト者はこの絶対的真理があることを知っている、唯一の神の民です。

2 イエス=真理

エスは彼に言われた 「私が道であり、真理であり、いのちなのです。 わたしを通してなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネ14:6)

エス様は自分が真理だと、語られたました。イエス様は、「私に従いなさい」と繰り返し、弟子達に語られます。 何故でしょう?それは、道そのものである、イエス様に進むことは、命に至る悔い改めに導かれ、「父のみもと」という最高の場所へと、私たちを到着させるからです。 父なる神が、キリスト者の信仰を守ってくださいます。

3 イエスポストモダンの対立

絶対的真理があると、公にしたら、周りの反応はどうなるでしょう。 大部分の反応は、独善的で排他的な思想であると認識し、警戒感を表すでしょう。 何故でしょう?それは前提となっている世界観が衝突するからです。 ポストモダニズムが現代人の世界観でしょう。以下はポストモダニズムの説明です。

“現代哲学の潮流は、フランスの哲学者J・デリダにならって「脱構築」、またはポストモダニズムと呼ばれている。 それは、すべての意味、真理は相対的であることを強調する。 また第一原理──すべての哲学探究の出発点として一般的に受け入れられている真理(例「私はある」)──を否定する。 哲学を学んだことのない人には何のことだかわからないかもしれないが、事実上、現代人の思考を支配しているのがこのポストモダニズムである。 真理を相対化する立場──「絶対的真理はない。あるのは個人にとっての真理のみ」──である。 「キリスト教はあなたにとっては真理かもしれないが、私にとっての真理ではない。」 これが相対主義の主張であり、ポストモダニズムの中心原理である。” (徹底検証キリスト教 第1巻 聖書:信じる根拠はどこにあるのか ジョシュ・マクドウェル著 kindle版)

しかし、果てしないポストモダニズムは、人を破壊へと導くことになるでしょう。 真理無くして、私たちは何も決定することも、決断することもできないからです

「私たちは、真理に逆らっては何をするこもできず、真理のためなら、何でもできるのです。(Ⅱコリント13:8)」

4 真理に対立する世に有効な、キリスト教弁証学の目標

間違いなくクリスチャンの聖書的世界観は、ポストモダニズムの世界観を持っている、世の人々と対立(衝突)することになります(暴力という意味ではなく、前提や知的部分で)。 もし対立(衝突)する部分が全くないとしたら、そのクリスチャンの信じている聖書観や神学が間違っているはずです。 リベラル神学や繁栄の神学のように、世に迎合する世界観を持って、ガラクタの福音を宣べ伝えてる可能性があります。 もしも真理を保護、擁護する術を知りながら、信仰生活を歩むなら、不必要な消耗を最低限にしながら、福音を宣べ伝えることができるはずです。 ウィリアム・レイン・クレイグ博士は、弁証学の目標を明瞭に示しています。

キリスト教弁証学の目標は相手の意見を無理やり変えさせるような”打ち負かす(ノックダウン)論法”を提供することではない。 それよりも、キリスト教弁証学の目標は、私たちが提案する『前提』を否定するために支払わなくてはならない”知的価格(プライスダグ)”を最大限あげることにある。」 (ウィリアム・レイン・クレイグ博士 キリスト教弁証家、哲学者、神学者: Apologetic Drummer - 日本におけるキリスト教弁証学 2020年12月19日 FB投稿記事参照 )

5 まとめ

エス様は、絶対的真理です。イエス様を疑うことは、恵みにより与えられた信仰を疑うことです。 しかし、クリスチャンは批判に晒されると、イエス様を時に疑います。 疑うことは悪いことでは、ありません。考えを深め、正しい理解を得るためには必要です。 しかし、批判に対する対処の方法を知らずに、打ち負かされるだけでは、本当に、キリストへの信仰から離れてしまうでしょう。 防御による弁証により、イエス様を真理であることを告白した結果、信者は世から聖め別たれます。 聖なる神を礼拝するためには、聖さが信者には必要です。真理はその聖さを実現します。 「わたしは、彼らのため、わたし自身を聖め別ちます。彼ら自身も真理によって聖め分かたれるためです(ヨハネ17:19)」 弁証論(学)を学ぶことは、真理に立ち続ける方法を知ることにより、クリスチャンはこの世の終わりまで、父なる神をあがめ、キリストの救いを喜び、聖霊の力により、福音を宣べ伝える働きに自らを捧げるものへと導いてくれるでしょう。

"神は、すべての人が救われて、 真理を知るようになるのを望んでおられます。" テモテへの手紙 第一 2章4節

【考察】信仰とは何か?

弁証論とは、定義を単純化すると「信仰を弁護する」ことです。 ある無神論者は、キリスト者の信仰は、空想話で、言い逃れで、大変な思い違いをしていると言います。 本当にそうなのでしょうか?信仰を弁護する為には、まず「信仰」とは何かを考える必要があります。

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無神論進化論の科学的理論の弱点

現在の地球の起源の仮説は、ご存知の通り、進化論と創造論の二つです。 無神論進化論者は以下のように、科学が絶対に正しい事であると言う、前提をおきます。

「科学的理論とは、観察と実験により、収集されたデータが基礎となる。」 (サイエンス・デイリー)

科学的理論はデータを積み上げる事で、結論の信憑性を上げていきます。 この科学的な思考に流れている概念は、「原因が結果を生む」というものです。 ですから、無神論進化論者は時間・空間・物資には制限があるなかで、「原因が結果を生む」と言うスキームにはめこむ事で、物事を判断します。 ここで、多くの疑問がでてきます。

世界のはじめをどうやって、観察するのか。

世界のはじめをどうやって、実験するのか。

世界のはじめをどうやって、収集するのか。

答えは、不可能です。科学的理論は「世界のはじめ」を証明する前提すら持っていません。

不明確な事を提示していない「信仰の証拠」

ではキリスト者の信じる創造論の信憑性はどうなのでしょうか? 上記で、進化論の弱点を指摘しましたが、キリスト教の信仰も、科学的理論で、「世界の初め」を証明することはできません。 しかし、まだ残されているものがあります。下記が鍵となる聖書のみことばです。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」(へブル人への手紙 11:3)*1

故R.C.スプロール先生のWhat Is Faith ?の中で上記の聖句を以下のように説明しています。

”重要なのは、その出来事の観察者として科学者がいなかったということです。 天地創造の目撃者もいなかったのです。 ですから、私たちは目に見えるものから何らかの推論をして宇宙の起源にたどり着くのか、それとも神が与えてくださった超自然的な啓示に目を向けるのか、それは私たちが知っているような物質的な宇宙よりも前のことです。 どちらにしても同じ結論になると思います。ヘブル人への手紙には、「この世界が神のことばによって創造されたことを信仰によって理解します。それは、「見えるものは、見えるものから作られたのではない」(11:3)と言っているです。 科学的分析のある時点で、目に見えるものから逆算すると、目に見えない物理的でない原因があるという因果関係の必要性にぶつかります。 歴史的にキリスト教神学者たちが「虚無からの創造」を語ってきたのはこのためです。 もちろん、これは虚無が関与していたという意味ではありません。 永遠に存在する自己存在の存在が、宇宙の効率的な原因でした。 神が宇宙を存在させたのです。「虚無から」の背後にある考え方は、単純に、陶工が粘土を魅力的な器に成形するように、 神は単に既存の物質を再調整したり、形を変えたりしたのではないということです。 その代わりに、神は物理的な世界を虚無から創造したのです。 もし神が既存の物質から世界を存在させたとしたら、その物質は物質的な原因を必要とし、その物質自体も物質的な原因を必要とし、永遠にさかのぼることになり、それはばかげています。 いや、"目に見えるものは目に見えるものから作られたのではない" ですから、ヘブル11章3節で「私たちは信仰によって創造を理解する」と書かれているということは、この時点で神の言葉を信頼するということです。 私たちは天地創造の時にはそこにいませんでしたが、神はそこにおられ、その説明を私たちに与えてくださいました。
神様は、「どのようにして起こったかを説明しています。私が宇宙の誕生を命じた。私は私である。私は自分自身の中に、そして自分自身の中に存在する力を持っています。私は永遠の存在です。私は有限の非永遠の宇宙の創造者です。 それは、私の創造力によって誕生しました。私は『光があるように』と言い、光があった。私たちが生きている世界は神の言葉によって設計され、枠にはめられ、創造されたものであり、目に見えるものは目に見えるもので作られたものではないことを理解するために、私たちは神の言葉を信頼しています(あるいは、目に見えるものは目に見えるもので作られたものではない)。”*2

またカルバン主義者・弁証家、ジョン・フレーム師は「信仰と聖書と証拠」について、下記のように説明しています。

信仰は単なる合理的な思考ではありませんが、不合理でもありません。信仰とは「証拠がないのに信じること」ではなく、十分な証拠に基づいた信頼です。この事実は聖書を見れば明らかです。アブラハムが息子イサクを犠牲にしようとしたこと(創世記22章)は、道徳的・合理的な規範に反する信仰の例としてよく紹介されます。しかし、このような分析は、アブラハムが自分のしたことを実行するための確固たる根拠、すなわち神の命令を持っていたという事実を考慮に入れていないことが多いのです。神が言うことは不合理でも不道徳でもありません。神のことばが私たちのために合理性と道徳性を定義しているからです。神が何かをするようにと言われたとき、私たちはそれをするためにそれ以上の合理的な根拠を必要としません。ですから、信仰は証拠がなくても信じるのではなく、信仰は神のことばを十分な証拠として尊ぶのです。*3

信仰の証拠を適用

神から与えられた信仰は、「原因が結果を生む」という世界観以外に、「虚無からの創造」という世界観が与えられたのです。 ですから、神のことば以上に合理的な根拠を必要とはしないのです。神のことばが十分な根拠です。 これを確信し告白できるのは、「信仰によって」(ヘブル11:3)です。 「虚無からの創造」という世界観は、信仰生活において重要な概念だと思います。私たちは、教会生活で兄弟姉妹に対して、何かをきっかけとして、怒ったり、裁いたりしたくなるときがあります。しかし、そもそも、信仰は「虚無からの創造」なくして、得ら ないものです。もはや、怒ったり、裁いたりする自分自身は無い者に等しいのであるなら、許すことは必然です。(すぐにその結果が目に見えて、現れなかったとしても)

次回の予定

「 信仰を真理かつ知恵として弁護すること(弁証論)」*4

信仰が明確になってきました。信仰を真理に変換する必要があります。世に惑わされない為に。 次回は「真理」について、考えていきたいと思います。

*1:聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

*2:What Is Faith ? [Kindle版]:R.C.Sproul  14-15頁 意訳

*3:Apologetics A Justification of Christian Belief [Kindle版]:John M. Frame  53頁 意訳

*4:聖書教理がわかる94章 キリスト教神学入門 J・I・パッカー[著]篠原明[訳] 12頁

【考察】弁証論がなぜ必要か?

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「弁証論」の定義

聖公会の偉大な神学者、J・I・パッカー師は弁証論の定義を簡潔に以下のように記しています。

「 信仰を真理かつ知恵として弁護すること(弁証論)」*1

キリスト教に対する無神論者からの批判

信仰を弁護することの前提条件は、信仰には”攻撃”があるということです。 最近の日本や世界の情勢を見ていると、キリスト教に対する批判圧力が、増しているように感じます。 人間中心主義(合理主義)の現代において、(保守的な)聖書の価値観は、人の常識の真逆の内容が真理であると告白することが多いからです。 もしも、キリスト者が信仰を弁護するという思考法や行動がないと、どうなるでしょうか?

まず、神の賜物として与えられた信仰に疑いが生じます。 セキュラ(世俗)の主張の声があまりにも、大きく強いとき、聖書のみことばが、間違っているように感じ疑いが生じます。 そして、信仰があるはずの自分に自信を失い、コミュニティから疎外されているように感じ、もはやクリスチャンであることの価値を見失います。 次に、信仰は神の命令に対する応答が伴うものです。 この信仰の応答こそ、教会の原動力なのですが、信仰の価値を見失うと、教会を建て上げる気力と体力が奪われます。

そしてもはや、神の裁きと怒りから救われた喜びよりも、世に同調することが、合理的で、なんの葛藤もなく、楽な生き方に見えて、教会から離れ、キリストの体である教会も同時に弱っていくのです。

弁証論は日本の中で信仰を維持する力

この事を防ぐために、信仰を真理と知恵に変換し、世に対して全ての事象において、聖書が正しい概念を示している事を証明しなければならないのです。

批判に対する聖書に基づいた反論

では、「信仰」を世に正しい事として証明するための証拠(エビデンス)は、どこにあるのでしょうか? R.C.スプロール先生のWhat Is Faith ?に以下の聖句の説明に納得がいきましたが、長くなってしまったので、今回はここまでにしたいと思います。 次回は「信仰」を真理と知恵に変換するためには、「信仰」が何かを理解していないければなりません。 次回のテーマは「信仰」について整理してまとめたいと思います。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。[へブル人への手紙 11:3] *2

*1:聖書教理がわかる94章 キリスト教神学入門 J・I・パッカー[著]篠原明[訳] 12頁

*2:聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

【オススメ】聖書を読むの時に意識すべき3つのこと

 【なぜ聖書を正しく読むことが重要なのか?】

ポストモダンの現代、現実や価値は相対的なものであり、人生の意味付けも相対的なものである。その結果、聖書の読者(解釈者)が聖書の言葉の意味を再構築することが、当たり前になっている。

しかし聖書を読者(解釈者)が神の意図を外れて、聖書の言葉の意味を再構築し続けるなら、もはやそれは聖書の神を礼拝することも、信仰を与えられたことを感謝することも、神に栄光を帰すことも、不可能になる。なぜなら、それは”聖書の神”をほめたたえるのではなく、”自分という神”をほめたたえているからである。

聖書を読む時、間違った前提や目的で読んでしまうと、キリストに似たものとなる(以下、聖化)過程で、聖書の神から力を得ることも、クリスチャン同士で聖書を通して励ましあうこと、意義ある交わりも、教会メンバーとしての教会形成も、難しくなってしまう。

このような罠に陥らないために、私たちは何を意識して、聖書を読めばいいのか。

 

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 【聖書を読むの時に意識すべき3つのこと】

  1. 主観的に聖書を読むことを避けること。
  2. 聖書に書かれていることを客観的に読むこと
  3. 聖書を客観的に読みながら、神の超越性を探すこと。
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