神の主権と栄光を追い求めて

神学と信仰生活の覚書

【考察】信仰とは何か?

弁証論とは、定義を単純化すると「信仰を弁護する」ことです。 ある無神論者は、キリスト者の信仰は、空想話で、言い逃れで、大変な思い違いをしていると言います。 本当にそうなのでしょうか?信仰を弁護する為には、まず「信仰」とは何かを考える必要があります。

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無神論進化論の科学的理論の弱点

現在の地球の起源の仮説は、ご存知の通り、進化論と創造論の二つです。 無神論進化論者は以下のように、科学が絶対に正しい事であると言う、前提をおきます。

「科学的理論とは、観察と実験により、収集されたデータが基礎となる。」 (サイエンス・デイリー)

科学的理論はデータを積み上げる事で、結論の信憑性を上げていきます。 この科学的な思考に流れている概念は、「原因が結果を生む」というものです。 ですから、無神論進化論者は時間・空間・物資には制限があるなかで、「原因が結果を生む」と言うスキームにはめこむ事で、物事を判断します。 ここで、多くの疑問がでてきます。

世界のはじめをどうやって、観察するのか。

世界のはじめをどうやって、実験するのか。

世界のはじめをどうやって、収集するのか。

答えは、不可能です。科学的理論は「世界のはじめ」を証明する前提すら持っていません。

不明確な事を提示していない「信仰の証拠」

ではキリスト者の信じる創造論の信憑性はどうなのでしょうか? 上記で、進化論の弱点を指摘しましたが、キリスト教の信仰も、科学的理論で、「世界の初め」を証明することはできません。 しかし、まだ残されているものがあります。下記が鍵となる聖書のみことばです。

「信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。」(へブル人への手紙 11:3)*1

故R.C.スプロール先生のWhat Is Faith ?の中で上記の聖句を以下のように説明しています。

”重要なのは、その出来事の観察者として科学者がいなかったということです。 天地創造の目撃者もいなかったのです。 ですから、私たちは目に見えるものから何らかの推論をして宇宙の起源にたどり着くのか、それとも神が与えてくださった超自然的な啓示に目を向けるのか、それは私たちが知っているような物質的な宇宙よりも前のことです。 どちらにしても同じ結論になると思います。ヘブル人への手紙には、「この世界が神のことばによって創造されたことを信仰によって理解します。それは、「見えるものは、見えるものから作られたのではない」(11:3)と言っているです。 科学的分析のある時点で、目に見えるものから逆算すると、目に見えない物理的でない原因があるという因果関係の必要性にぶつかります。 歴史的にキリスト教神学者たちが「虚無からの創造」を語ってきたのはこのためです。 もちろん、これは虚無が関与していたという意味ではありません。 永遠に存在する自己存在の存在が、宇宙の効率的な原因でした。 神が宇宙を存在させたのです。「虚無から」の背後にある考え方は、単純に、陶工が粘土を魅力的な器に成形するように、 神は単に既存の物質を再調整したり、形を変えたりしたのではないということです。 その代わりに、神は物理的な世界を虚無から創造したのです。 もし神が既存の物質から世界を存在させたとしたら、その物質は物質的な原因を必要とし、その物質自体も物質的な原因を必要とし、永遠にさかのぼることになり、それはばかげています。 いや、"目に見えるものは目に見えるものから作られたのではない" ですから、ヘブル11章3節で「私たちは信仰によって創造を理解する」と書かれているということは、この時点で神の言葉を信頼するということです。 私たちは天地創造の時にはそこにいませんでしたが、神はそこにおられ、その説明を私たちに与えてくださいました。
神様は、「どのようにして起こったかを説明しています。私が宇宙の誕生を命じた。私は私である。私は自分自身の中に、そして自分自身の中に存在する力を持っています。私は永遠の存在です。私は有限の非永遠の宇宙の創造者です。 それは、私の創造力によって誕生しました。私は『光があるように』と言い、光があった。私たちが生きている世界は神の言葉によって設計され、枠にはめられ、創造されたものであり、目に見えるものは目に見えるもので作られたものではないことを理解するために、私たちは神の言葉を信頼しています(あるいは、目に見えるものは目に見えるもので作られたものではない)。”*2

またカルバン主義者・弁証家、ジョン・フレーム師は「信仰と聖書と証拠」について、下記のように説明しています。

信仰は単なる合理的な思考ではありませんが、不合理でもありません。信仰とは「証拠がないのに信じること」ではなく、十分な証拠に基づいた信頼です。この事実は聖書を見れば明らかです。アブラハムが息子イサクを犠牲にしようとしたこと(創世記22章)は、道徳的・合理的な規範に反する信仰の例としてよく紹介されます。しかし、このような分析は、アブラハムが自分のしたことを実行するための確固たる根拠、すなわち神の命令を持っていたという事実を考慮に入れていないことが多いのです。神が言うことは不合理でも不道徳でもありません。神のことばが私たちのために合理性と道徳性を定義しているからです。神が何かをするようにと言われたとき、私たちはそれをするためにそれ以上の合理的な根拠を必要としません。ですから、信仰は証拠がなくても信じるのではなく、信仰は神のことばを十分な証拠として尊ぶのです。*3

信仰の証拠を適用

神から与えられた信仰は、「原因が結果を生む」という世界観以外に、「虚無からの創造」という世界観が与えられたのです。 ですから、神のことば以上に合理的な根拠を必要とはしないのです。神のことばが十分な根拠です。 これを確信し告白できるのは、「信仰によって」(ヘブル11:3)です。 「虚無からの創造」という世界観は、信仰生活において重要な概念だと思います。私たちは、教会生活で兄弟姉妹に対して、何かをきっかけとして、怒ったり、裁いたりしたくなるときがあります。しかし、そもそも、信仰は「虚無からの創造」なくして、得ら ないものです。もはや、怒ったり、裁いたりする自分自身は無い者に等しいのであるなら、許すことは必然です。(すぐにその結果が目に見えて、現れなかったとしても)

次回の予定

「 信仰を真理かつ知恵として弁護すること(弁証論)」*4

信仰が明確になってきました。信仰を真理に変換する必要があります。世に惑わされない為に。 次回は「真理」について、考えていきたいと思います。

*1:聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

*2:What Is Faith ? [Kindle版]:R.C.Sproul  14-15頁 意訳

*3:Apologetics A Justification of Christian Belief [Kindle版]:John M. Frame  53頁 意訳

*4:聖書教理がわかる94章 キリスト教神学入門 J・I・パッカー[著]篠原明[訳] 12頁